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Ensemble Girls! 7th Anniversary

図書室秘史──
白樺諤々伝

著:木野誠太郎

「はぁ。外、あっつぅ……

あたしたちの、大学四年生の夏。

じりじりと灼ける暑さを肌で感じながら、あたしは神保町の古書店のひとつ──『天羅屋書房』を後にする。

小脇には日に焼けた分厚い小説本の入った包みを抱えて、それなのに服は白いワンピースに、白のハット。古書店街の連なるこの町には似つかわしくない少女趣味だけど、あたしはこの清廉なお洋服とこの街の取り合わせが、むしろ擬古的なセンスを感じさせて好きだった。

だからこの容貌を見て、『せっかくの休日に、お粧しをしてお出かけする街は他にいくらでもあるのに〜』だなんて無遠慮に言われたら『ハイそうですね』と、すこし腹を立てたふうに言うほかない。

あたしが研究する作家も、そういう独特な感性を持った文学少女だった。だからあたしは、たまたま授業で出会った彼女の作品に運命的なものを感じて、文学部のゼミで彼女のことを研究することにしたのだ。

名を、白樺諤々という。

彼女は昭和初期に活躍した文筆家で、帝大の教授を父に持つ生粋の活字狂だ。だけど女流文学の大家というわけではなく、諤々の本は稀少で、値段はそれなりにする。具体的に言うと、諭吉が二三枚飛ぶくらい。図書館で借りるにしても、あたしの大学には置いてなくて、べつの大図書館まで借りにいく必要があるという難物だ。

そんな諤々の古書──しかも用紙が黄ばみがかっている本に大枚を叩くのも馬鹿らしいと思う人もいるかもしれない。

でも、そういう生き物なのだ。文学部生というものは。

──ファンがアイドルに何万円と使うのと、そう変わらないでしょう?

使った金額の大きさを気にしないよう、つとめて自己暗示をかけていると。

「終わったかね、深鳥くん。暑さのあまり溶けてしまうかと思ったよ」

軒先のテントの陰で読書をしていた女が、あたしに話しかけてきた。

峰山しおん。

彼女とは高校時代からの腐れ縁で、今は同じ大学に通っている。白のブラウスにジーンズというラフな出で立ちだが、それが妙に様になる──そんなクールな雰囲気のやつだった。

あたしは、上気しながらも読書をやめられない峰山のようすに、ムッとして聞いた。

「ていうか、わざわざこの暑いなかで立ってるくらいなら、本をしまってお店に入ったらよかったのに。──何読んでたの?」

「ああ。これは観光客向けのパンフレットだね。あいにく、持ってきた本は読み終えてしまったからね。暇つぶしに読んでいたんだよ」

……この活字中毒者め」

「ふふ。お褒めに預かり光栄だよ、深鳥くん」

微笑を浮かべる彼女は、モナリザみたいな長いワンレンの黒髪を軽く撫でると、

「さて、それでは私の番だね」

といって、水道橋のほうへ歩き出す。あたしも、ため息交じりに峰山のあとを追った。

「わかったわよ。ついていけばいいんでしょ」

買った本を読みたい気持ちは山々だったけれど、はじめから、そういう契約になっていた。

もとより、ライバル意識のある峰山と一緒に学外で行動をともにするのはめったにないことなのだ。

峰山は日々の生活も疎かにして読書ばかりしているものの、学術のほうでは知識や器用さを発揮しており、周囲から一目置かれる存在だった。それゆえゼミの課題も飄々としたペースを崩さず、早々に終わらせていたのだ。

あたしも峰山に遅れを取るものかと善戦していたが、今回に限ってはあたしがゼミのレポート提出に苦戦していることもあって、資料の在り処を探し出してくれたのだ。

代わりに、峰山の行きたい場所に同行するという条件つきで。

「だけど、あたしを連れてどこ行こうってのよ。あんたとは長年の縁だけど、たまに文学論を戦わせる以外はあまり関わりがないじゃない。それこそ、他にはあんたの部屋掃除をやらされたことくらいしか──

言いかけて、あたしは前回の期末テストで峰山との賭けに敗北したことを思い出し、きつくまぶたを閉じてなかったことにすると、続けた。

──おほん。あんたも目的くらいは話してちょうだいよ」

「目的、ねぇ」

峰山は、くちびるに指を当てると、ほんのすこしだけ上を向いた。

逡巡して──峰山は、要領を得ない言葉を口にする。

「探究心、いや、野次馬根性とでもいうべきか──

「んん?どういうことよ?」

「白樺諤々について調べるうちに、いろいろと情報を得たのだけどね。興味ぶかい話が出てきてね。それを確かめに行こうと思ったんだ」

「はぁ?何よそれ。あたしにも話しなさいよ」

何せ、あたしにとって諤々の研究は特別なのだ。

それをむやみに峰山に触れられるのは、あたしの気持ちが済まなかった。

だが、峰山はそんなあたしの気持ちを推し量ってか。

「安心したまえ。君の研究対象を横取りするつもりはないよ。ただ、こういう話はお茶でも飲みながら話すのに適している──あぁ、私あの喫茶店に入ってみたいな」

これ見よがしに要求する峰山。

目線の先には、古民家をリノベーションしたと思われるいかにもな喫茶店があった。

「奢らないわよ」

「足代くらいは出してくれたっていいじゃないか。諤々の本の取扱店、わざわざ知人の古書店員に調べてもらったのに」

…………

「あ〜あ。私は君と違ってアルバイトをしていないから、喉が渇いても飲むものがないよ。アイスコーヒー一杯七百円、東京都の最低時給よりは安いと思うのだけど」

「ッ〜〜〜〜!」

あぁもう、これだから峰山は面倒なのよ……

あたしは峰山のニヤケ顔を睨みつけるが、要求を断るだけの言葉は持ち合わせていなかった。

***

夏場に飲むアイスコーヒーの美味しさといったら格別だ。

落ち着いた雰囲気が漂う喫茶店のソファで向かい合って、あたしたちはコーヒーを飲みながらしばらくの間は会話もかわさず、大人しく場の雰囲気を味わっていた。七百円もする飲み物を買ったのだから、そのくらいしても罰は当たらないだろう。

それよりも、峰山に奢らされたこともあって、話をすると悪態をついてしまいそうなのが問題だ。こういう静かな店で口論をするほど、あたしたちは子供じみてはいない……と思いたい。

「それで……いい加減教えてくれるかしら」

グラスの中身が空に近付き、氷が溶けてカランと鳴ったとき。

あたしは喫茶店に置かれていた『春と修羅』を読んでいる峰山に切り出した。

「あんたは諤々の何を知ってるの?」

峰山は、ふむ、と頭を上げると、微笑を湛えて言った。

「性急だね。まずは『春と修羅』について語りあうのが文学徒としての使命だと思うのだけど……。君、『チェーホフの銃』って知ってる?」

「知ってるも何も。ストーリー技法のひとつでしょ。話に関係ない小道具を舞台に持ち込んではならない――だからって現実にそれは適用されない。あたしが『春と修羅』について語る必要なんて感じないわ」

「ふむ。残念だね。せっかく置いてあったのに、語らせてくれないとは──まぁいい。さっそく本題に入ろうか」

峰山はそういうと、『春と修羅』をテーブルの上に置いた。

「ここは『チェーホフの銃』よろしく、あえてこの本の作者である宮沢賢治について触れよう。彼は生前評価されず、死後ようやくその存在を認められた」

「触れなくてもいいわよ。それが諤々とどう関係あるの?」

「いや、なに──君にしては珍しいと思ったのだよ。君はかつて新聞部部長として、生徒たちのゴシップやスキャンダルを楽しみ、文学とはセンセーショナルであるべきだと述べた。それがどうして、諤々を研究するに至ったのかとね」

峰山の微笑は、すべてを見透かしているようだった。

彼女は瞬きもせずに見た。

あたしの目を。その心を。

ふいに、あたしのグラスを持つ手が震えた。怪人──峰山しおんがかつて『図書室の怪人』という異名を持って、学内のいくつかの問題を傍観し、手引し、まるで事態を掌の上で操るように解決へと至らせていたことが、ふいに脳裏をよぎった。

……べ、べつに研究の理由なんていいでしょ。諤々とは気風が似てるって思ったのよ」

それは、本心から出た言葉だった。

だが、それだけが本心ではないということも、目の前に座した怪人にはお見通しだった。

「いいや。君はもっと深淵を覗いているね。詳しく研究している君ならすでに知っているだろうけれど──諤々は断筆を宣言し、表舞台から姿を消したんだ。まさか知らないとは言わないよね?」

「それは、そうだけど──

「言葉を濁さなくとも、君の心理は長年共に過ごした姉妹のように理解できるよ、深鳥くん。──君は、彼女の断筆の理由を探っているのだろう?」

ふふふ、と笑う峰山。

本当に底知れない。あたしはついに目を逸して、俯くほかなかった。

「ええ。そうよ……。ゼミの先生にも、あまりに荒唐無稽すぎて言ってないけどね。恐ろしいまでに順調だった諤々の筆を折らせたのが何だったのか、あたしは知りたい」

「ふむ」

「悪いけど、あたしは負けず嫌いなのよ。学部生ごときが何を見つけられるのかって言われたくなくて、秘密にしてたの」

峰山は腕を組み、うんうんと頷く。

「そうだね。私も君に遠慮して……というか怒られると思って、諤々のことを調べないようにしていたのだけど。調べれば調べるほどに、興味の湧く作家だったよ。そして、君にはもうひとつ、言っておかねばならないことがある」

「はぁ?まだ何かあるの……!?」

正直、これ以上あたしの調査対象に踏み入ってほしくない。

そう思うと同時に、峰山とならこの謎を解明できるのではないかという一筋の淡い期待も感ぜられる。

本当に、魔性というほかない。そういう傑物なのだ、峰山は──

話の続きを聞くには気が重すぎるように思えたが、あたしが敗北感に打ちひしがれているのを対面の彼女は意にも介さない。

ふいに、峰山は一枚の汚れた封筒をかばんから取り出した。正確には、封筒は上からビニールを被せられ、うやうやしく保護されている──『資料』とでも呼ぶべき代物だった。

「これは……?」

「諤々の古書に挟まっていたものだよ。宛名を見てみるといい」

恐る恐る、その封筒を触る。

中には便箋が数枚入っているのだろう。程よい重厚感が、あたしの気をはやらせる。

封筒には、『白樺諤々先生』と書かれており、日付の印には彼女が断筆宣言をした年次が記されている。

そして、肝心の差出人は──

「ねぇ峰山……。この住所ってもしかして……

「ああ。お察しの通り──諤々の文通相手は、私たちの母校、君咲学院の生徒だったのだよ」

***

白樺諤々が断筆する直前に、君咲学院の生徒と文通していたという事実。

それを知ったあたしはレンタカーを借りて、峰山を助手席に乗せ夕暮れの高速道を進んでいた。

目的地は当然、君咲学院だ。

「だけど、わざわざその日に行くことはないだろう。実家の近くとはいえ、着の身着のままで地元に向かうものがどこにいるっていうんだい?」

「何を悠長なこと言ってんの。情報は鮮度が命なのよ!それにあんた言ってたじゃない、君咲学院の図書室に記録が残ってるんでしょ?」

「いや。私はべつに『記録が残ってるなら図書室だろう』と言っただけで、図書室にある保証はないのだけれど……。まぁ、乗りかかった船だ。君の好きにしてくれたまえ」

わざとらしくため息を吐くと、助手席のリクライニングシートを倒して横になる峰山。

それとは対照的に、あたしはかつて新聞部にいたころのように、気持ち前のめりになっていた。踏んだアクセルに自然に力が入る。

なぜなら、文通の中身には作家としての諤々ではなく、ひとりの人間としての彼女の心情が綴られていたからだ。そこには、昭和という時代ならではの苦悩があった。

白樺諤々──本名・白樺百合子は帝大教授の娘であり、本人も名のある女子校に通っていた才媛であった。

そのステータスは当時の女子としては高いものだったが、それは決して彼女の両親が学問を修めてほしいという気持ちから始めたものではなかったことが、諤々への手紙から明らかになったのだ。

齢二十五の彼女は、見合結婚を両親からしきりに進められていた。

諤々の両親にとっての『女のする学問』というのは、当時の見合い結婚が中心だった世の中において、名家の子息が喜ぶ箔のようなものだったのだろう。

当然、学問に親しんだ諤々──白樺百合子はその修養が結婚相手としての価値と見られることにショックを受けた。

『諤々』とは、ありのままを正しく述べ立てるさまを表した単語だ。

その名を筆名に冠した彼女にとって、自身の生きざまが社会的な身分を高めるために与えられたものでしかないと知ることは、屈辱以外の何物でもなかっただろう。

そして、諤々は十歳ほど離れた女学生──お嬢様学校として知られる君咲学院の生徒と文通相手になり、その悲しい心中を吐露したのだ。

宛名が『白樺諤々先生』となっていることから、もしかするとファンレターへの返事がきっかけで、遠方の君咲学院の生徒と繋がったのかもしれない。

何にせよ、あたしたちが見た手紙から、諤々が断筆するまでの期間はまだ半年もある。

諤々は何を思ったのか──その答えは、君咲学院にあるはず。

東京から高速道路を使い数時間。あたしたちは地元である君咲学院一帯へと戻ってきた。

もっとも、その頃には日も暮れて、辺り一面は真っ暗になっていたのだけれど。

君咲学院の校門前に車を停めて助手席の峰山を叩き起こすと、あたしたちは車から降りて校舎を見上げた。今や懐かしい、青春とともにあった学び舎の姿だ。

「ここがあの女のハウスよ」

「ふあぁ、ふ……。あぁうん、そうだね……?」

眠たげにあくびをする峰山は、まだ寝ぼけているのか曖昧にうなずいた。

「しかし深鳥くん。無計画にここまで来たはいいものの、これからどうするんだい?」

「どうするって……図書室に行くのよ。あそこは君咲学院でもっとも資料がアーカイブされてる場所でしょ、元図書委員?」

「ふむ。そうは言うものの、私たちは卒業生だよ?生徒の帰ってしまったこの時間に図書室に入りたいなどと言ったところで、日を改めることを推奨されるのが関の山だよ」

峰山はまるでトレンディドラマの主人公みたいに肩をすくめた。

「深鳥くんのせっかちな性格は昔から変わらないね。君と一緒に来たいと言っていたのは私だが……きちんと段取りを踏んで、日を置いてここに来てもよかったんじゃないかな」

「何よ。あたしに文句があるなら、もっと前に言ってくれたらよかったじゃない。レンタカーを借りるときだって、あんたは本を読んでたし、車では眠りこけてたでしょ」

「それは君が強引すぎて、対話ができない状態だと悟ったからだよ」

「あんたが唯々諾々と従ってたのが悪いのよ!」

気づけば、あたしも峰山もヒートアップしていた。

だが、さすがにここで口論するのはあまりにまずいだろう。警察沙汰とはいかないまでも、職員室に連れられてお説教されるかもしれない。

峰山も察したのか、目を背けながら言う。

「今から取れる行動はひとつ。学校に侵入することだ。だが、推奨はしない。私はともかく、就職を控えた君にとってはあまりに無鉄砲な行動だと思うからね」

……あんた、いやに常識的ね。そういうキャラだった?」

彼女はいちおう心配してくれているのだろう。

だけど──

諤々に共感したものとして、ここで引き返すわけにはいかない。

「行くわよ。リスクなんて考えるまでもなく、あたしはあたしの好奇心に従うの」

「君は変わらず、無垢で純粋だよね。愛おしくもあり、憎たらしくもある」

峰山はそれ以上何も言わず、素直にあたしの隣を歩いた。

***

「諤々の本ならこの辺りじゃないかな」

真っ暗な図書室で、あたしは峰山の案内とスマホの明かりを頼りに諤々の本を探した。

「でも、まさか諤々の本に手がかりなんてあるものかしらね?」

「それ以外の手かがりもないだろう……ほら、この本じゃないかな」

峰山は書架から本を取り出す、

大学の図書館にも置いていないような珍しい本が置かれていたことに内心驚きつつも、あたしはその本を手に取り、ページを捲る。

流すように続けると、最後のページと裏表紙の間に封筒が挟まっていた。

……あった」

封筒の中には、諤々から生徒に当てた手紙が入っていた。

「暗くて読みづらいけど、何と書いてあるんだい?」

「えぇっと、そうねぇ……。とりあえず、あんたも読んでみなさいよ」

「ふむ……?」

峰山は手紙を読みながら眉をひそめる。

当然の反応だ。なぜなら、諤々からの手紙には、文通相手の女生徒に向けての熱烈な愛の言葉が、これでもかというほどに書かれていたのだから。

「ふふ。素晴らしいではないか。諤々は文通相手の子を愛していたんだね」

得心したように峰山は笑うが、あたしとしては納得がいかない。腑に落ちない手紙の文章が、頭の中でぐるぐると回遊しているような気分だった。

まさかあの白樺諤々が、恋愛にうつつを抜かして筆を折った?

そんなことはあってほしくない。

なにせ白樺諤々の『諤々』は、時代にも負けず女性が率直な物言いをするという気概の現れなのだから。

「それは違うよ、深鳥くん」

峰山はあたしの言い分を、落ち着いて否定した。

「人間は環境に適応するために思考を発展させてきた生き物だ。──だからこそ、諤々の転向ともいうべき断筆宣言は、人間らしい思考の変化とも言えるのではないかね」

「そ、それは屁理屈よ。だって恋愛関係にあったからって、わざわざ作家としての未来を捨てる必要ないじゃない!」

「まだわからないのかい、深鳥くん。……当時の同性愛は、今日以上に偏見の目に晒されていたのだよ。だからこそ諤々は彼女と穏やかに暮らすために表舞台から姿を消した。そうは思わないのかね?」

…………

まったくもって、その通りだ。

あたしはスマホの明かりを消すと、月明かりを頼りに図書室の窓にもたれかかった。

……あの封筒を見たときから、何となくその予感はあったのよ。諤々は断筆してから、白樺家の離れに住んでいたの。自ら雇った女給とふたりでね」

「ほう……そうだったのかね」

「ええ。だからもしかしたらって思ったんだけど……やっぱり、諤々はそのときを境に変わってしまったのね」

白樺諤々は、愛するひとのために『白樺百合子』に戻ったのだ。

その決断を咎められるひとは、世界じゅうどこを探したっていないはずだ。

祝福しよう。

あたしは勝手に期待しただけで、彼女の決断は、彼女自身が背負ったことだ。

そして──

その覚悟は。

その愛は。

──諤々本人が二度と姿を現さなかった以上、きっと永遠となったのだから。

***

帰り際。

暗くなった廊下を、ふたりで歩く。

窓の外には、見慣れた君咲学院の風景がある。

「変わらないわね、ここも」

「そうだね」

静かな校舎に、あたしたちの靴の音が反響する。

しばらくそのままあるき続けていると、ふいに峰山があたしの顔を覗き込むように、半身になってこちらを向いた。

「ねぇ深鳥くん。君は今回の諤々のことを、レポートに書くのかい?」

「何よ、急に……

発言の真意を読み取れなかったが、気にせず続けた。

「べつに、書くまでもないことでしょうよ。昔の──新聞部だったころのあたしなら、喜んで記事にしてたと思うけど……この事実を公表したところで、誰も喜ばないわよ」

「ふふ。やっぱり君は変わったね、深鳥くん」

「あんただってそうでしょ。元から変わりものだったけど、今はまだマシになったっていうか……。大学生になってすこしは人間らしくなったわよね?」

「人間らしく、ねぇ。でも、君の言うこともわからなくはないね」

峰山は長い髪を掻き上げて、しんみりしたように言った。

……高校生ぐらいのものだよ。自分が世界の中心にいると思いこんで、独善的に周囲に影響を与え続けられる時期なんてのはね。『図書室の怪人』として君を傷つけてしまったこと、今でも申し訳なく思っているよ」

「あはは。今更すぎるわよ」

ずっと昔のことを謝られたところで、許せないなら絶交しているだけの話だ。

こうして時たまにでも関係が続いていることを、むしろ喜ばしく思うべきなのだろう。

「深鳥くん。君も私も、これから社会に出て、環境や生活──何もかもが変わっていくだろう。だけど。これからも変わらずに、君は私の話し相手でいてくれるかな」

……はぁ?何を急に……

「さぁね。私としても珍しく、弱気になってしまったのかも」

見れば、闇に隠された峰山の表情は、かつての彼女のように読めなかった。

……そう」

峰山の冷たい手をきゅっと握りしめる。

恥ずかしくて声に出せないけれど、それが答えだった。

七年もの間、ずっと一緒にいたのだ。

最初は尊敬し、裏切られ、疎遠となり──やがてお互いが侃々諤々の文学論争をする相手として認めあい、やっと対等な立場になれたあたしと峰山の関係。

おびただしいほどの文字と言葉をぶつけ合ってようやく結んだ、ふたりの糸。

たとえあたしたちが変わったとして、この関係はこれからも続いていくの。

──なんて思ってるのは、あたしだけじゃないわよね。

そうよね、峰山?